「A Life In A TANK-TOP」
-タンクトップを着た人生- (2014〜 )
1. THIS IS A TANK-TOP (2014-)
by KONMASA
KONMASAの誕生は1枚のタンクトップだった。
2012年にNYへ渡った。きっかけはファッションだった。
服が好きだった自分は、憧れの地で服飾の勉強をしていた。
しかし、度重なる不運に、僅か2年弱でその道を諦めることにした。
それからはフラフラと美術館めぐりを始めた。
それまでは近藤雅也と名乗っていた男が、はじめて現代アートというものに触れたのだ。
技術や技法は全く関係ない──自由なところに惹かれ、アートについてはよく理解していなかったが、
毎日のように様々な作品を鑑賞した。
その日は土曜日で、夕方からグッゲンハイム美術館がドネーション(寄付金)制で入館できる日だった。
螺旋のスロープをゆっくりと歩いていく中、一枚の絵画の前で足が止まった。
30分ほど経っただろうか。
大勢の鑑賞者がいたはずなのに、自分しかその絵の前にいないことに気がついた。
この違和感をどう言葉にしたらいいのか。
なぜか鳥肌が立っていた。
鳥肌をなぞるように腕を触るとあることに気づいた。
自分がタンクトップを着ていることに。
服が好きだったはずの自分が、今日は肌着のタンクトップ1枚で街を歩いている。
長い時間思考した。
今この瞬間、私がここに存在したという事実を、このタンクトップが確認した。
23歳の私はタンクトップを着続けることを決意した。
それからしばらく日が経った。
2014年4月5日、タンクトップでいる自分を記録として残した最初の日。
1年に1度は必ずタンクトップの自分を撮影している。
私がこれからしようとすることは多くの人には理解できないだろう。
しかし、これは私が唱える「自由」なのだ。
THIS IS A TANK-TOP
1. THIS IS A TANK-TOP (2014-)
by KENMAX
「近藤雅也は死んだ。僕はKONMASAだ。僕はもうタンクトップしか着ない」
私はこの言葉を、真っ先に思い出した。
友人の口から出た言葉に当時は
「何言ってんだ?こいつ」
としか思わなかったが、あの言葉の中には大きな覚悟があったのだと、
今では痛感している。
インターン先で出逢ったときは、まだ近藤雅也だった。
洋服が好き、写真が好きという共通点から仲良くなり、色々なことを話すようになった。
ファッションやアートのこと、最近の出来事など話す内容はそこら辺の大学生と大して変わらない。
だがその中でも、彼の話す現代アートの話は特段に面白かった。
作品のことはもちろん、芸術家の性格や歴史的背景を細かく説明してくれ、
あまりアートに関心のない私もいつも惹き込まれて聞いていた。
私から見た彼はまさに『探究者』だった。
この探究者という側面が『近藤雅也』を『KONMASA』に変化させたのだと思っている。
NYで近藤雅也は数々の不運に見舞われた。
その度に、自分の人生についてとことん思考を巡らせていたのだと思う。
考えて考えて考えて考えて考え抜いたことで、
近藤雅也という人生を捨てて
タンクトップを着続けるKONMASAとしての人生を始めたのだろう。
写真は、インターン先の簡易スタジオで撮影したものだ。
KONMASA宣言を受けてからまだあまり日が経っていなかったと思う。
インターンの仕事が始まる前の早朝で、私は寝不足だった。
何枚か撮ったうちの1枚を見た瞬間、ボーッとした頭に衝撃が走った。
「これは神だ!」と私たちは笑い合った。
独特の雰囲気を醸し出す1枚。
何気なく切ったシャッターだったのだが、そこには友人の近藤雅也ではなく、
アーティストKONMASAが既に存在していた。
2. MEISO (2015-2023)
by KONMASA
タンクトップを着始めてからは、流れでフォトグラファーとして活動した。
表現できるのであれば、手法は何でもよかった。
アシスタントを経験する中で、タンクトップフォトグラファーと呼ばれることもあった。
フォトグラファーとして生きていく傍ら、次々と作品制作に取り組んだ。
しかし、作品のコンセプトを考えることに違和感を覚えるようになった。
何かを表現するも、見せかけでしかない。
それでは自分は納得しない。
結果、何も分からなくなった。
ちょうどその頃、グッゲンハイム美術館で世界的コンテンポラリーアーティスト、
河原温の作品に出会った。
膨大な時間の経過に圧倒され、思考が追いつかない体験をした。
一体どれだけの人が、「自分」という存在を理解しているのだろうか。
この世の無常さに、宇宙や仏教について調べるようになった。
そこから自分の死についても考えるようになり、自死が過ることもあった。
そのため、考えることをやめた。
しかし、思考を堰き止める方法が分からず、服飾学生時代に使っていた縫針で、
ただただ紙に穴を空け続けた。
そうしていると、いつの間にか雑念が消えていることに気がついた。
恐らくそれが自分にとって初めての瞑想体験だった。
2015年5月18日、穴を空けて描いた自画像を初めて作った。
撮影後にその紙はゴミ箱に捨てたが、その時アートが何なのか少しだけ理解できたような気がした。
そうして私は、「自分」を見つめるため──無我の境地に達するため、
大量の穴を空ける行為でできた瞑想空間の制作を始めた。
2. MEISO (2015-2023)
by Yushi
2014年、彼が友と呼べるようになった時、
彼はもうすでにタンクトップしか着ない男であった。
なぜタンクトップしか着ないのか周りの人間は疑問に思うかもしれないが、
私にとっては何も疑問を抱かなかった。
なぜならそれが彼だからだ。
それよりも印象に残っているのは撮影中、彼がシャッターを切る時に
彼のエネルギーが一気に外に放出される瞬間である。
そのエネルギーは本人だけではなくモデルやその周りで動く人々全てに伝播、
巻き込んでいた事を鮮明に覚えている。
また彼の写真作品は、何にも形容できない彼の内に秘めているものが
カメラを通して投影されているようでもあった。
彼の作品や制作に対するスタンスで興味深い点は、表現の対象が常に自らの内面である事だろう。
服飾学生からフォトグラファー、
言い換えると表層を作る事を生業としていた彼が次第に形ではなく内なるものを見つめることへ
変化していった様はとても興味深く感じる。
彼の芸術作品を鑑賞していると、違う次元の世界に行ったような感覚になる。
それは作品の中にある無数の穴一つ一つが織りなす世界のみならず、
その作品に彼の内面、哲学が反映されているからだろう。
MEISO、それは彼が彼自身の内面と向き合うための作品であると同時に、
鑑賞者も鑑賞者自身の内面と向き合う作品であり、取り巻く全てが無我に還っていく。
そういった作品ではないだろうか。
3. SIDEBURNS (2018-)
by KONMASA
2018年、約6年間住んだNYから帰国した。
結局、私がNYで得たものは「タンクトップ」だけだった。
帰国前にヨーロッパを周遊した。
オランダからイギリス、フランス、ドイツ、スペイン、イタリア、ギリシャへと渡った。
とても清々しい毎日だった。
最後にイスラエルにも滞在した。
NYでは超正統派のユダヤ人街付近で暮らしていたため、イスラエルという国にとても関心があった。
全身真っ黒の衣服と帽子、カールした長いもみあげ。
世代を越えて守られていく厳しい規程。
嘆きの壁の前で祈る彼らを前に、ふと生きる虚しさを悟った。
自由に生きているはずなのに、苦しい。
死んだら抜け殻のタンクトップだけがこの世に残る。
しかし肉体に魂が宿っている間なら、そこから生まれた物質にも意志は継承されるのか。
私もこの日からもみあげを伸ばし続けた。
そして、色即是空の体感として、己でそれらを切る行為を始めた。
切られたもみあげは新しい器へと移行し、KONMASAのDNAが継承されていく。
まるで子孫を残すかのように。
3. SIDEBURNS (2018-)
by Kenichi Nishida Ramsøe
私は彼のヘアスタイリストだ。
KONMASAのヘアスタイルを担当して何年が経つのだろう。
彼との出会いはNYだった。彼を語るのは簡単ではない。
彼のもつ唯一無二の世界観と人間性を一言で表すことは不可能である。
KONMASAの人間としての懐の深さ、思いやり、繊細さ、強い信念、温故知新、センスオブユーモア。
そして芸術家としての常にマニアックな発想、
いい意味で裏切られるKONMASAならではの着眼点や切り口、スーパーコンテンポラリーな作風。
どちらの側面から見ても異彩で、唯一無二の魅力で溢れている。
彼の優しい人間性と前衛的な芸術性から生まれる作品を一体何と表現したら良いのか。
きめ細やかさと大胆なパンク感の融合、、、と言おうか。
時に常人には理解が難しい場合がある。
僕がKONMASAの人となりを知っているからだろう、彼の世界観は不思議といつも自分にはすっと入って来てくれる。
この芸術家の表現したいこと、メッセージ、世界観を理解し、楽しむことができるのはとても幸せなことなのだ。
誰もが理解できることじゃない。自分がKONMASAの友になれたことは本当にラッキーだ。
自分の人生にとってかけがえのないもので、自分の人生を振り返った時、彼と歩んだ時間は間違いなくハイライトのひとつだろう。
そんな彼と作ったヘアのアートワークはどれもマスターピースで、マグショットをテーマにしたヘアのルックブックは計5冊にのぼる。
さて、作品のインスピレーションは我々の間でしばしば「消費」と呼ばれるGoogleマップを開かず、街を練り歩きから生まれることが多い。
へとへとになりながら、当てもなく会話をして、自然と街から、何かを吸収していく。
時に1日で20㎞も歩くこともあった。
マンハッタンの碁盤の目を彼と縦横無尽にとにかく歩き回った。
たくさんインスピレーションと学びがあった。
そんな我々の「消費」の最中にNYのジューイッシュコミュニティWilliamsburg, Borough Parkをしばしば訪れた。
そのエリアはウルトラオーソドックスと呼ばれるジューイッシュしか住んでいない圧倒的アウェー。
禁断の地に足を踏み入れるような感覚。
このジューイッシュとの出会いはKONMASAのSIDEBURNS誕生の発端になっている。
宗教上の理由から、彼らは頭を丸めて、もみあげだけ長く残す独特のヘアスタイルをしている。
初めて彼らのヘアスタイルを見た時、ヘアスタイリストととして衝撃を覚えた。
全身黒の礼服と黒いハット、そしてあのヘアスタイル。
ジューイッシュについて興味を持たずにはいられなかった。
彼らの宗教観や規律、祈り。
現代社会とは全く別の領域で生きている彼らを知れば知るほど呑み込まれていった。
それから数年後、NYを離れたKONMASAはそんな彼らの聖地エルサレムを単独で訪問する。
嘆きの壁で祈る彼らを見て、ひとしきり悟るのだった。
KONMASAの新章。SIDEBURNSー。
伝説はまた始まる。
4. KONMASA BLDG (2021-2024)
by KONMASA
帰国後、2019年からは立て続けに展覧会を開催した。
私の表現する「瞑想空間」は、紆余曲折しながらも少しずつ理想の形へと近づいていった。
2020年4月に私の企画展が長野県の美術館で開催されることになった。
しかし、新型コロナウイルスの影響を受け、設営は済ませたものの、初日から閉館することが決まった。
することが無くなり、故郷である名古屋市・有松に帰省すると、学生時代の後輩が声をかけてきた。
彼とは元々気が合い、「一緒に何かをしよう」という話になった。
2人なら1人よりも大きなことができるのではないかと感じ、彼を信用し、理想となる瞑想空間の制作に取り組んだ。
そして、2020年12月に彼はKONMASAビルの物件を見つけてきた。
さらには出資者を見つけてきて、契約し、工事をして、しばらくすると多額の負債だけ残して姿を消した。
全てが苦しかった。
しかし、この一連の流れは、KONMASAビルを作り上げるのに非常に重要な出来事だった。
なぜなら、彼がいなければ間違いなくKONMASAビルは存在しなかったからだ。
この苦しみに耐えられる限界は、そう長くないだろうと悟った。
これは苦行だと言い聞かせ、999日という縛りをつけた。
万一、999日間続かなければ、タンクトップを脱ぐという制約もつけた。
999日間KONMASAビルでは私がカフェとギャラリーを運営し、日々接客を行った。
1階床面に残された無数のサインは、個室で瞑想をしていった方々と関わったアーティストのものだ。
日を重ねるにつれ少しずつ増えていく名前の羅列は、まるで曼荼羅を作る修行のようでもあった。
2階では旧知の仲である作家や、尊敬するアーティストの展示を入れ替わりで行った。
その中でも、2015年にNYで私が非常に感銘を受けた河原温の展示は、KONMASAビルにとっても、
私の人生にとってもかけがえのない時間となった。
また、母校である中学校の生徒たちと制作したタンクトップ作品の展示や、
地元有松の藍染作家、早川嘉英氏の展覧会は、故郷という「地」でしかできない活動だった。
3階の瞑想部屋は、理想とする瞑想空間を追い求めて999日にわたって進化をし続け、
4階では999日間かけてKONMASAを解説するフォトギャラリーとして様々な展示を継続的に行った。
そして、入り口──コンクリートの地面に埋めたタンクトップを1000日目に掘り出して体感する、諸行無常。
苦行を重ねて、最後に残るたった1枚のタンクトップ。
このタンクトップには999日分の思いが全て詰め込まれており、
1000日を経て初めて「KONMASA BLDG」というタイトルを得るのであった。
4. KONMASA BLDG (2021-2024)
by 「文と芸」 渡辺元気
白目を剥き、頭上で手を合わせ、曼荼羅のような書で埋め尽くされた和室で座禅を組み、タンクトップ姿で、叫ぶ。
KONMASAさんのプロフィール写真です。
はじめてKONMASAビルを訪ねたとき、この写真のイメージしかなかったので、
一体どういう人が出てくるのだろうと結構緊張していたことを覚えています。
が、一階のカフェでKONMASAさんの作った梅茶漬けを啜りながら、
KONMASAさんのこれまでの話に耳を傾ければ、あぁなんだかこの人のこと好きだなぁ、と。
等身大の人間を感じるというか、作品に対してとても真剣なのだということが、伝わってきました。
であるならば。
「あのプロフィール写真、怖いって言わたことあるんですけど、怖いですかね?」
「いや。あの写真からだと、どんな人なのか想像できなくて」
と、写真の意図について尋ねるのにモッテコイな会話もしましたが、
初対面の遠慮と緊張もあって、踏み込むことはしませんでした。
その後、一階奥の暗闇で瞑想体験をさせてもらい、
二階ではタンクトップを着たロボットの写真を見て、
三階ではムンクの叫びのような自画像の涅槃図と相対し、
四階ではたくさんのタンクトップを眺めては、窓の向こうに名鉄本線のカタンカタンを聞き。
真剣。
これを作った人は真剣なんだという前提があれば、作品に対してどういう意図があるのだろうと思考を費やすことになる。
真剣なんだという前提があれば「よく分からない」「理解できない」「ふざけてるんだろう」と思考を投げ出すことはなくなる。
きっとそれこそが。
KONMASAビルを巡って、当時の自分はそんなことを思いました。
その後、KONMASAさんから作品解説の文章編集を依頼されたこともあり、
それぞれの作品についての意図や成り立ちを改めて細かく知りましたが、
あのプロフィール写真については今でも謎なままです。
というわけで、次に顔を合わせたときは切り出してみようと思います。
返ってきた応えが腑に落ちるものでも、そうでなくても。
他者を理解しようとする姿勢こそが、KONMASA作品においても、
あるいはこの世界においても、大切ではないかと、
そんなふうに思っています。
5. KONMAMA (2022-)
by KONMASA
2022年3月28日、母が亡くなった。
諸行無常だというが、その苦しみは形容し難い。
その日着ていたタンクトップは決して洗うことはできない。
天国であり、地獄でもあるこのゲームは、いつまで続くのか。
KONMASAというDNAは母がいなければ存在しなかった。
母が残した車を外壁塗装で真っ白に塗り、市場価値は0円と化した。
KONMAMAと名付けたそれを、廃車になるまで乗り切ることが自分なりの弔い方なのだ。
そして廃車になった部品と、亡くなった日に着ていたタンクトップを結合した時、KONMAMAは完成する。
全てが温故知新であり、諸行無常。
この身が消滅し、生老病死の円の中から抜け出したとしても、
抜け殻のタンクトップだけが語り継ぐ、この日々の想い。
たとえそれが途絶えたとしても、それはとても美しく、自然なことだ。
6. CARD (2022-)
by KONMASA
2022年7月29日から8月9日まで河原温の「I Got Up」展が、
国際芸術祭「あいち2022」連携企画事業としてKONMASAビルで開催された。
私の目的は、作品「KONMASAビル」に「I Got Up」を展示することで生じる、
究極の瞑想空間を形にすることだった。
それが私の一つの目標でもあり、夢だった。
苦難もあった展覧会だったが、河原温作品が引き寄せてくれた様々な一期一会は、
渦のように広がり、それは目には見えないが、とても眩い時間だった。
私は自分が生きている間に、どれだけ特別な人に出会えるのだろうかと考えた。
自分に影響を与えてくれた人物、家族や友人、仲間。
仮にその人たちに裏切られたとしても、人を信じたその瞬間に生まれる純粋な感情はとても美しいものだ。
私は2022年11月1日から、河原温が「I Got Up」や「I Am Still Alive」でしていたように、
あるカードを人に配り始めた。
カードは2枚1組になっており、1枚は自分が出会った特別な人たちに配り、もう1枚は自分が半永久的に保管することにした。
人に配るカードの表面には「THIS IS NOT A TANK-TOP」の文字と、三桁のシリアル番号がゴム印で押されている。
裏面には印刷で「このカードはKONMASAがタンクトップを脱いだ時、もしくはKONMASAの死亡が確認された時にアート作品となります。」
と書かれている。
私が保管する方のカードは「THIS IS A TANK-TOP」の文字と、三桁のシリアル番号がゴム印で押され、裏面には「このカードはKONMASAがタンクトップを脱いだ時、もしくはKONMASAの死亡が確認された時に紙切れとなります。」
と印刷されている。
カードを重ねた状態で、シリアル番号の数だけカードに穴を空ける。
私のサインなどは入れず、その穴の位置こそが、私がカードを渡した証拠である。
毎日ではなく、その瞬間に、その出会いが重要だと感じた時、カードは発行される。
出会いは人生の分岐点であり、これは河原温の「I Got Up」を展示しなければ生まれなかった行為だ。
河原温は間違いなく私の人生を変えた出会いなのだ。
6. CARD (2022-)
by Nozomi Hishiki
2022年11月1日、彼から一枚のカードを受け取りました。
THIS IS NOT A TANK-TOPのゴム印、それとたったひとつだけ穴の空いているカードです。
彼はいつも人や物の外面ではなく内面を特に大切にしている人でした。
それはアート作品に対しても同じです。
どうしてこの作品を作ろうと思ったのか、どんな心境のときに作ったのか、
何を思って誰を想って作り上げたのか、表面的なところだけではなく真髄を楽しんでいる、
そんな印象を受けました。
彼に出会う前のわたしはそういう意味でしっかりとアートに向き合ったことはなかったと思います。
けれどわたしはKONMASAというアートに出会いました。
なぜタンクトップを着続けるのか、
なぜもみあげを伸ばしているのか。
なぜ大量の穴を開けたのか。
そんな一つ一つの なぜ が繋がり、線となり理解への一歩になる。
理解がひとつ、またひとつと深まることで作品の持っている表情が変わるような気持ちになりました。
思考することを怠らず、常に刺激を求める。
そんな彼だからこその繊細で力強く、生を実感するような作品。
知れば知るほど惹き込まれるKONMASAという人物。
そんな彼から受け取った一枚のカード。
目に映る部分ではなく当人同士にしかわからない繋がりがあることを意味するそれは、
個を尊重し寄り添い、人との繋がりを大切にする彼だからこその行動でありアートだと思います。
わたしの受け取ったカードがアート作品になったとき、仮にわたしがまだ命を繋いでいるとしたら
KONMASAという実在したアートを語り継ぐことを約束します。
わたしの人生にアートという色をつけてくれた存在を惜しむことなく時間の許すまで伝えたい。
河原温が彼に影響を与えたように、彼もまたわたしの人生に大きな影響を与えてくれたのです。
7. KONNANA (2023)
by KONMASA
国際芸術祭「あいち2022」が終わり、KONMASAビルが残り500日を切る頃に、
当初この場所で掲げていた目標の90%を達成していたことに気がついた。
残り500日で、何か最後にできることはないかと考えた時、巨大なタンクトップの存在が脳に揺らいだ。
自分の身の丈に合わないタンクトップは果たしてタンクトップなのか?
しかし、私にとってタンクトップは衣類の枠を越えていたのだ。
2023年4月19日、
KONMASAビル700日を記念に7日間、名古屋駅のシンボル、
全長6m10cmのナナちゃん人形にタンクトップを着せるのであった。
タンクトップには「THIS IS NOT A TANK-TOP」と書かれている。
脱がされた巨大なタンクトップがこの7日間を語り続けるのであった。
7. KONNANA (2023)
by yano
2020
遡ること、数年前、渋谷に現れたのは、
黒のブーツ、緩めの黒パンツ、金髪にオン眉の前髪、もみあげが異常に長い「タンクトップ」だった。
新しい職場の面接官として現れた「タンクトップ」が、私の世界に異物として入ってきたのだ。
気付けば、渋谷から名古屋市の果て有松に引っ越し、
KONMASAの曼荼羅の心中に巻き込まれていた。
そして、私はKONMASA一階のカフェエリアで店長を任された。
さまざまな鼓動が聞こえてきそうなビルだった。
他のアーティストやそこに立ち寄った全ての人の喜怒哀楽の鼓動が、ビルと調和していた。
そこには、綺麗なものばかりでは無く、畜生も存在していた。
時に、それらを対峙する彼は滅びそうだった。
そんな最中、彼は次々と作品を発表し、生き続けた。
「生きることが芸術なのだ」
と謳う彼の作品は、まさに人間らしく、暖かく、美しかった。
それから、月日が経ち、いつしか、あの日の面接官は、KONNANAになっていた。
等身大だった。
8. KONMEMO (2023-)
by KONMASA
KONMASAビルの苦行が少し落ち着き、自分が死んだ時のことを考えた。
タンクトップを着なくなれば「KONMASA」の死を意味する。
色々な経験をしたが、最後に残るのは「タンクトップ」しかないんだ、と改めて悟った。
タンクトップの抜け殻だけが「KONMASA」という存在を語り続ける。
2023年1月1日から毎日、同じタンクトップで過ごし、
その姿をiPhoneで録画し、自分が存在していたという証をデータで残した。
iPhoneのカメラで──日付を改ざんしていない証拠として、「Adjust」画面のスクリーンショットも同時に記録する。
改ざんされている場合は、Adjust画面上でOriginalとAdjustedの日時が同じでも右上に「Revert」と表示される。
着用するタンクトップには手書きで「THIS IS A TANK-TOP」と書かれており、
その下にはシリアル番号が書かれている。
1枚のタンクトップの着用期間は99日を上限とし、99日間記録を全うしたら「SUCCESS」とし、
記録を忘れた場合は「FAILURE」とする。
その時点で次の番号のタンクトップへと着替え、同じことが繰り返される。
その抜け殻となったタンクトップは白いキャンバスに縫い付け、
キャンバス裏面には着続けた期間の撮影記録を印刷した紙を貼る。
これら日々のタンクトップを記録した動画内のサウンドは、
KONMASAの肉体から生成された、呼吸音、手を握る音、歩く音、腸内の音を録音し、
ミックスしたものである。
8. KONMEMO (2023-)
by JANTENNA
KONMASAとはタンクトップである。同時に僕にとっては親友であり先生でもある。
KONMASAビルがオープンして間もない2021年8月KONMASAと運命的な出会いをした。
以後ほぼ毎月一度は訪れることになったのは何故なのか?
確かに全てのカフェメニューはおいしかったしリーズナブルで居心地の良い空間だった。
定期的に変わる展示スペースも魅力的だった。
だがそれだけではない。
芸術や現代アートに精通しているわけでもない僕にKONMASAは惜しげもなく沢山の貴重な話をしてくれた。
作家さんを紹介して繋げてくれた。
僕が悩んでいる時や困っている時にアドバイスをくれた。
KONMASAといると安堵感とやる気が湧き出てくるのだ!
そんな彼の作品は押し付けがましい表現ではなく内面の重苦しい叫びでもない。
ある意味では「無」なのではないだろうか。
「一度決めた事はやりぬく」と言うだけあってKONMASAは理想論だけでなく本当にやってしまう。
表にいっさい表さないが普通なら無気力で何も出来なくて当然なことがあってもKONMASAはやるのだ。
そこに意地やプライドや執念とかではない無がただ存在している。
そんな人柄が魅力的な作品を生み出し共感する者が集まり共鳴しているのではないだろうか。
僕は音の表現者なので何か一緒に出来たらと内心思っていたのだが、
DJを用いた企画やBGMの制作依頼を受けることがあった。
7時間のDJを2日間した時、40分の瞑想用の曲を依頼された時、
お腹の音を録音したいなど「軽く言うけど正気かこの人・・・本気なんだな。。。」
そんな有意義なひと時を過ごせたのは一生の思い出となっている。
KONMEMOでは、お店が閉店後に機材を持ち込み、
99日間同じタンクトップを着続けたKONMASA自身の99回のハンドクラップ、
99回の足音、99回の呼吸を収録して、腸内の音と合わせて出来上がった。
僕の家にはKONMASA作品がいくつかあり、目の届くところに飾ってあるのだが、
「あぁもうどうでもいいや」と自暴自棄に陥った時
「いや、まだいけるだろ」「KONMASAならまだ諦めないだろ?」
「あともう一歩だけ進もう」
と思うことが多々あり何度となく救われた。
彼はこれからも思いもつかない事を続けるだろう。
タンクトップは走り出す。
そして僕はKONMASAを追いかける。
9. MEISO ∞ TANK-TOPS (2023-)
by KONMASA
和紙に大量の穴を空けた「MEISO (2015-)」は、自画像をベースとした作品が主であったが、
2023年からは核であるタンクトップを象ることにした。
この境地にたどり着くのに、気づけば8年が経過していた。
タンクトップの制作にあたっては、己に様々な制約を課した。
まず一つのタンクトップに対して、穴を9999回空けることとした。
さらに穴を空ける回数が初めて下記の数に達した時には、和紙を差し替え、また一から穴を空けることとした。
1,2,3,4,5,6,7,8,9,11,22,33,44,55,66,77,88,99,
111,222,333,444,555,666,777,888,999,
1111,2222,3333,4444,5555,6666,7777,8888
つまり一つのタンクトップを完成させるため、36枚の和紙と55,530回穴を空ける行為を必要とした。
加えて同年から始めた「KONMEMO (2023-)」で着用していたタンクトップを本作品のモデルとし、
「KONMEMO」が001から002、002から003、003から004……
と着替えていく周期内(=99日間)に、上記の過程をすべて終えることとした。
最後にこれらの行程を永遠に繰り返すこととした。
それぞれの和紙にはスタンプを三つ押し、左上には「THIS IS NOT A TANK-TOP」、
右下には「KONMEMO」で着用していたタンクトップのシリアルナンバー。
その下には穴を空けた回数を印した。
設定した数字に意図はなく、自分にとって実現可能ながらも困難な数を求めたに過ぎない。
ゾロ目としたのは、ただその羅列に美しさを覚えたからだ。
出来上がった和紙は木枠に額装し、障子のような仕上がりにする。
そうして幼少期、祖父の家の障子に穴を空けて怒られていたことに思いふける。
これが、KONMASAによる「MEISO」の真理であり、それはタンクトップなのだ。
9. MEISO ∞ TANK-TOPS (2023-)
by Chiaki Dosho
KONMASAについて
私は近藤雅也を知らない。
私が初めて会ったのはKonmasaさんと言う、galleryのオーナーであり
現代アートのアーティストらしい?
タンクトップを着た、長く伸ばしたもみあげが金髪の不思議な一人の青年だった。
彼は私のレベルに合わせてくれたのか?些細なアートの話に始まった。
それは少しずつ広がり、枝葉が重なり見事な大木となり、次第に奥深く深く展開して行った。
淡々と語る言葉は乾いた大地に水が染み込む様に、フリーズしていた私の脳の中に気づかぬうちに染み込み融解していった。
いつの間にか彼は私にとってアーティスト[KONMASA]になっていた。
[KONMASA]の概念作品は無数にあけられた針穴からのスタートか?
おびただしい数の穴を見ると、これらをあけるための時間がどれだけかかったのか?
それをあけている時間、どれだけ無の中にいて瞑想の時を過ごしたか。
私もファイバーアートの作品をミシンで制作する長い時間、まるで修行僧のようだと感じ、
何も考えずにいられる瞑想のような時間を過ごす。
その時の感覚は私自身が異世界にいる。
これは瞑想ルームの体験に酷似しているような気がする。
MEISO ∞ TANK-TOPS (2023-)では、和紙と木で障子のイメージの作品を展開している。
幼い頃の祖父の家の障子に穴をあけ怒られた思い出という。
001の最初の作品は針穴1つから始まったと聞いた。
長い時間、針で穴をあけ続けた彼は、針穴1つの世界から再びスタートした。
考えに考え抜かれた[KONMASA]の思考はどう変化し、ここに至ったのだろう。
これは1つの針穴から9999の穴に至り、Tank-Topの形が霧の中から現れるらしい。
「KONMASA」に提案。
私が購入したこの作品に、指で穴を一つ開けて欲しい。
幼い日の様に。それは現代アートなら許される事。
同時に現代アートのアーティストのコラボレーション。私の提案と「KONMASA」の行動。
まさにこの世にたった1つの、唯一無二の現代アート作品になる。(笑
10. KONMASA 47 (2024-)
by KONMASA
「KONMASA BLDG (2021-2024)」完成後、かねてからの目標であった
「1枚のタンクトップで日本一周」
を決行することにした。
日本一周する際、「KONMAMA (2022-)」のドライブレコーダーで可能な限り走行記録を残し、
1都道府県につき1回自撮りを行う。
そうして出発地でもある愛知県で旅の終わりを迎え、刈谷市の白磁作家、
酒井崇全(サカイタカマサ)氏のもとで、旅衣のタンクトップを焼成し、砕く。
それら破片を47都道府県で縁を持った人々や、これから出会う人たちに長い年月をかけて配っていく。
こうして日本列島で1枚のタンクトップが完成する。
10. KONMASA47 (2024-)
by Takamasa Sakai
「タンクトップの人」がある日、私の陶磁工房にやって来た。
不思議な事だが、私は10年ほど前に自分の制作工程の動画を撮った。
それは工房開設10周年記念パーティーで投影したものなのだが、
そこに映り込む自分は意図的にタンクトップ姿で撮影に挑んだ。
それは制作工程には全く関係なく、視た者が
「あれ?ところでなんでタンクトップ姿?」
と気づいたら面白いなと思ったからだ。
その10年後「タンクトップの人」がタンクトップを持って私の前に現れたのである。
そして、河原温にかなりの刺激を受けている人だった。
割愛するが、私も河原温は制作活動に直接ではないにしろ、意識するアーティストの一人だ。
つまり、「タンクトップの人」が私の前に現れたのは、偶然ではなく必然なのである。
その「タンクトップの人〝KONMASA〟」は
自ら着て全国47都道府県を周ったタンクトップを持参し、陶磁器にしたいと言う。
そこで、タンクトップをそのまま泥漿(液状にした粘土)につけ込み、
乾燥させて1300度で焼成。
このタンクトップを砕き、破片を47都道府県に配ると言う。
このKONMASAの企みを聞いた時、私は日本神話が過ぎったのである。
日本一周をしたタンクトップが大地(土)をたっぷり含み、
火に包まれギュッと凝縮される。(実際に2割弱の収縮をする)
そして破壊され全国に飛び散る…。まさに火の神「カグツチ」を髣髴とさせるではないか!
KONMASAと私が産み出した陶磁器タンクトップは、
「イザナギ」と「イザナミ」との間に生まれた神「カグツチ」で、
火の神を産んだ火傷で「イザナミ」が死に、その怒りを生まれた子「カグツチ」に向け剣で殺す。
KONMASAがハンマーで砕く様そのものである。
カグツチの血や亡骸から多くの神々が生まれたように、全国に飛び散ったタンクトップの破片は
新たなる物語を創り出すであろう。
11. TANK-TOP-TSUDA (2024-2025) meets sanuki base
by KONMASA
2024年2月24日── KONMASAビルのタンクトップ掘り出し。
そこに駆けつけたのは香川県津田町で活動する「さぬきベース」という3人組だった。
彼らのおかげで「KONMASA BLDG」という作品は無事完成を迎えることができた。
私はその日のお礼をするため、彼らの町にタンクトップを着せることにした。
瀬戸内海に位置する津田は、とてもエネルギッシュで、いい意味でタンクトップとは無縁の町だった。
はじめに1枚の紙に津田の地図を描いた。
さらにその町並みを覆うようにタンクトップを重ねて描いた。
まるで津田がタンクトップを着ているかのような図だ。
そのタンクトップ内のエリアを中心に活動することを決め、さらに実物のタンクトップを1枚用意した。
そうして、このタンクトップに町のエネルギーを「吸収」させて、「分解」し、「放出」 することとした。
これら3つの制作工程は、それぞれ99日間と定めた。
まず砂浜に黒い和紙を敷き、その上にタンクトップを重ねる。
そうして白いインクで縁取りをした。
そのタンクトップを海岸に干し、潮風と陽光を取り込ませたのち、
エリア内の様々な場所で撮影をおこなった。
漁師の船に乗せてもらいタンクトップと共に海を渡り、
町の住民にタンクトップを着てもらったり、
道端、線路脇、路地、飲食店、橋の上、駅、松原──津田の至るところに
タンクトップが存在した記録を残した。
そして 2024年11月10日。
町の入口にあるコンテナ──港へと面した壁にタンクトップを貼り付け、
99日間、津田のエネルギーを「吸収」させた。
99日後。タンクトップをコンテナから剥がす。
そののち町の住民たちにタンクトップをハサミで99切れに「分解」してもらった。
その日は 2025年2月24日──
KONMASA ビルのタンクトップ掘り出しからちょうど1年だった。
分解された99切れにナンバリングを施し、あわせて本作品のここまでの記録を本にまとめた。
そうしてタンクトップの端切れと共に 99 冊を「放出」する。
放出期間は分解から99日後の6月3日から9月9日までの99日。
この間、町の中には様々なアーティストや、住民が制作したタンクトップが展示される。
いわばタンクトップの芸術祭だ。
私は砂浜の工程でタンクトップの台紙とした黒い和紙に、針の穴で津田の地図を描き、
その作品をベースに瞑想部屋を制作。
その部屋に足を踏み入れた人は、自身が既にタンクトップの中に在ると気づくことだろう。
そして 9 月 9 日。
99に分解された端切れの最後の1切れをさぬきベースに渡し、1枚のタンクトップが町から放出される。
そこに暮らす人や訪れた人にとっては、それがタンクトップだったかどうかは各々意見は分かれるだろう。
しかし2025年夏、この瞬間に大勢の人々がタンクトップを意識したのは唯一津田だけなのだ。